二十六、あかり

 その少女の名は「あかり」と言う。活発で聡明な子である。彼女の父親は、ガス関連の企業に勤めていて、現在、中国の上海支店にその長として出向している。もうかれこれ、三年になろうとしていた。妻がこの港町の出身で、健太の父親とは同級生だった。家族は、いったんは上海に移り住んだが、勤務が長引きそうになって、父親があかりと妻の健康を心配して、単身赴任での勤務となった。上海の空気中の汚染物質が、平均で、この町の三十倍という恐るべき値だったことが、いちばんの原因である。

 あかりは、母の実家で暮らしている。祖母と祖父、それに母親との四人暮らしであった。上海では、鼻炎や咳に苦しめられていたが、この町に越してからは、うそのように症状が出なくなった。元気になったあかりは、祖父母と一緒に海岸へ行って、海藻や様々な貝などを収穫するのを手伝ったり、港の防波堤でアジなどの小魚を釣って、海の暮らしを楽しむようになった。あかりの母親は、そんな娘を見て安心していたが、夫の健康が心配で、毎日午後八時ちょうどに上海との連絡を取り合っていた。

「もしもし。元気にしてますか?」
「うーん。今日はPMがかなり飛んでいてね。つらかったよ。」
「そうなの。毎日大変ね。」
「そっちは、どう? あかりは元気か。」
「ええ。元気に飛び回っているわ。」
「そうか。それは良かった。」
「そうそう。今日は、おじいちゃんと、アジ釣りに行ったの。二十匹くらいだったかしら、あかりも釣ったんですって。」
「ほお。釣り、覚えたんだな。」
「いっしょにさばいてアジのフライつくったわよ。おいしかったわ。」
あかりの父親は、このように、娘の元気な様子を聞いて、心を和ませていた。
「そういえば、このごろ、お友だちができてね。健太くんていうんだけど。とってもいい子でね。二人で学級委員してるんだって。」

 あかりの母親自身も、健太のことが気に入っていた。祖父と二人暮らしだったが、何の屈託もなく、男の子らしく、はきはきとした物言いで、礼儀正しい子だと思っていた。

「そうか。いい友だちもできてよかったな。」
「健太くんのおじいちゃんが、漁師やってて、健太くんも随分上手いそうなの。ときどき、おおきなブリや鯛、持ってきてくれるのよ。」
「へえ。そりゃいいな。こっちでは新鮮な魚はなかなか食べれないから、うらやましいよ。」
「釣りたてを持ってきてくれるから、お刺身にしていただいているんだけど、最高に美味しいの。」
「ますます、うらやましい!」
「次は、いつ日本に帰ってくるの?日がわかったら、健太くんにお魚、おねがいしてみるわね。」
「うん、たのむよ。」

 あかりの父親は、半年に一度くらいの頻度で、日本に戻っていた。港町から車で二時間半の都市に、国際空港があって、上海からの直行便があった。父親が返ってくる日、あかりは、母親とともに車で父親を迎えにいくのが常だった。空港からの帰り道は、あかりの近況報告の話に花が咲いた。二時間半、ほとんど、あかりの独壇場だったが、うなずきながら、あるいは、目を細めながらその話を聞くのが、父親にとって、帰国した時の、何よりの楽しみだった。


つづく


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